sukerokuのアーリーリタイア(を目指す)記録

アーリーリタイアをする資産は一応あるが、色々なしがらみや心理的なハードルから思いきれないでいる半端モノの記録

週刊文春 家の履歴書 矢玉四郎さんの回に思う②  幸せは同時代で感じることは難しいか?

 

文春の2021年11月18日号の家の履歴書は児童文学作家の矢玉四郎さんであった。

 

矢玉さんがまだ児童文学で成功する前の貧乏生活の事の話

 

木造二階建てで、小さな庭と駐車スペースもあるいい家だったよ。ここで長男が生まれた。この頃、義父の看病のために妻が家を留守にすることも多かったから、僕は仕事をしながら幼い子供たちの面倒をよくみていた。ベビーカーに子供を乗せて、近所の公園には全部行ったよ。家のぼっとん便所に窓から入ってきた鳥が落ちたこともあったな。この賃貸住宅で過ごしたときが人生で一番幸せだったかもしれない。

 

この後矢玉さんの児童文学が売れ始め、大金を手にして、生活もかなり楽になったと思ったらその後奥さんが癌で亡くなった。その時子供はまだ小学四年生と一年生だったそうだ。

 

奥さんの件もあって、貧乏生活をしていた頃が一番幸せだったと回顧しているかもしれないが、幸せというのは同時代で感じることは結構難しいように思う。

 

後から振り返ればあの時は幸せだったなぁと思うものだ。

 

一方で不幸は後から振り返るよりも、その時に感じることが多い気がする。あとから振り返ると不幸も良い思い出となるのだが、その時には不幸と感じる。

 

この違いなんだろうか?

 

不幸は同時代で感じるが、幸福は後から振り返って感じる。逆に不幸は後から振り返って感じることは難しいかもしれない。

 

幸福の反対が不幸ではないのかもしれない。

 

僕は今、大きなストレスもなく、特に金銭的な不安もなく毎日を過ごしている。もちろん家庭内の問題などはあるのだが、大した問題ではない。

 

間違いないく幸福だと思う。しかしその幸福を毎日噛みしめて日々を暮らしているかといういとそうではない気がする。

 

しかし後から振り返れば間違いなく幸福の日々だったと思うことだろう。

 

今から振り返っても過去のそれぞれの時代は、その時その時は大変であったが、やはり幸せであったと思う。忙しい時、何かに必死に取り組んでいる時など、その時は大変だったが今から振り返るととても幸せだった思う。

 

もっと毎日の幸せを感じながら生活できないものだろうか?

 

最近はコロナのせいで、バカな国民、政治家、医者などにとてもムカついているのだが、そもそもベースの日々の生活が幸福なので、こういう奴らのことは無視してもいいのだけれどね。

 

それでもこういう奴らに自分の幸福が一部毀損されている気がするなぁ。まぁ、どうでもいいけど。