sukerokuのアーリーリタイア(を目指す)記録

アーリーリタイアをする資産は一応あるが、色々なしがらみや心理的なハードルから思いきれないでいる半端モノの記録

生来の能力の不平等をどう考えるか?

 

常々疑問に思っていること。

 

親の所得による子供の学歴の差が問題になっている。

 

よく言われるのは東大に入学した子供の親の年収がかなり高いといこと。つまり財力がないと子供を東大に行かせられないといこと。

 

そういう社会を変えようとボランティアやソーシャル企業が、貧しい家庭の子供の学習を手伝ったりしている。

 

それはとても良いことだと思うし、それに異論を唱えるつもりは毛頭ない。

 

ただしこのような話を聞くたびに思うことが一つある。

 

それはこのような話の根底にあるのは「成績は努力に比例する」という前提。この前提があるからこそ、努力できる環境にない子供を救おうという話になる。親に財力があると子供を塾に行かせることができる、勉強をするに良い環境を用意することができるので、よい学校に行けると思われている。

 

しかし僕の実感としては、「努力よりも本人が生来持って生まれた能力の差の方が大きい」というもの。その生来の能力の差についてもどうしようもない。この不平等についてはあまり言及されることがない。

 

しかしこれは(あくまで個人的経験からだが)明らかだと思う。例えば僕は気づいた時にはすでにある程度勉強ができていた。それは努力とは関係なくもともと持って生まれたものだった。子供の頃は一切家で勉強しなかったが、学校で授業を聞いているだけで理解できたし、成績も良かった。これは自分の努力ではなく、単にそのような能力を持って生まれただけの話なので自慢をすることではない。

 

一方で同じように勉強をしない同級生の中には成績が悪い子供もいた。その子供たちと一緒に毎日遊んでいるのでお互い勉強していないのは分かる。それでも成績に大きな隔たりがあった。

 

いくら勉強をしても、持って生まれて知的能力(学校の学習のための総合的能力)が低ければ、知的能力の高い人と競争するのは難しい。

 

例えばスポーツや芸術の能力であれば持って生まれた能力というのを人は簡単に受け入れるように思う。しかし知的能力に関してはなぜか生来の能力差よりも努力による差が大きいと世間は感じているように思う。これは僕の実感とかなり異なる。

 

生来の能力の不平等について、貧しい家庭の子供たちの勉強の面倒を見ている人はどのように考えているのだろうか?

 

努力が成績に結びつくという前提で考えているのだろうか?そうであれば残酷な話である。なぜなら成績が悪いのは努力をしていないからだということになる。仕事でも同じ。仕事ができない、効率が悪いのは頑張っていないからだという前提に立つと、その本人にすべての責任があることになる。

 

しかし生来の能力の差を認めると、成績は努力の差だけによるものではないことが分かる。むしろ努力の差よりも生来の能力の差の方が大きいのではないだろうか?

 

努力する才能というのもある。特に何もしなくても理解できるもともと知的能力の高い人は学校の勉強に対して努力することも比較的簡単である。なぜならある程度分かるからである。しかし知的能力の低い人は、そもそも分からないから努力する気も起らないと思う。

 

 

生来の能力の差があるにしても、貧しい家庭の子供の学力を上げることは当然に意味がある。それは社会全体にとって意味があると思う。だからそれが無駄だと言っているのではない。

 

生来の能力差の方が努力による差よりも大きいという認識に立てば、家庭環境による成績の差を問題視する人は、結局生来の能力の差の通りに結果が表れればよいと考えていることになる。そういう問題を認識しているかと問いたい。

 

つまり裕福な家庭の子も貧しい家庭の子も平等に教育を受ける権利を与えようと標語することは一見とても素晴らしく、反論のしようのないことのように思える。

 

しかし全員の環境を均一にした先に出てくる差は何だろうか?それを努力の差と考えるのか?それとも生来の能力の差と考えるのか?

 

当然どちらか100%ということはない。そのmixであろう。しかしどちらの方が大きいだろうか?

 

僕は生来の能力の差の方が大きいと思っている。それはあくまで個人的な経験からであるが、しかし生来の能力の差は上述したとおり努力にも影響を与える。もともと能力のあるものは努力もしやすいが、能力の低いものは努力するにも、能力のあるものに比べれば何倍ものパワーを要求される。

 

結局環境の差を排除する試みというのは、生来の能力による差を際立たせる試みであるということになる。

 

生れた家庭が裕福か貧乏か、そういう環境的な要因で差が生まれるのは良くないが、生来持って生まれた能力で差が発生するのを肯定しましょうというそういう運動に思えてならない。

 

そしてもっというと生来持って生まれた能力の差の方が、環境要因で発生する差よりも圧倒的に大きいように思うのだ(あくまで個人的感覚)。

 

環境要因による不平等はタブーだが、持って生まれた能力による不平等は問題ないという割り切りができるだろうか?そういう事も含めて考えているのだろうか?

 

これは能力に限らず美醜についても同じ。美しく生まれたものと醜く生まれたものの差。これはもうどうしようもないくらい決定的である。

 

人は意外にこういう生来の差については無頓着で、それを平等にせよとは主張しない。それはどうしようもないからだと認識しているからであろう。

 

だから知的能力は努力の差であると思い込みたいのだと思う。そうでなければ教育というものが崩壊してしまう(努力をしても無駄ということになる)。

 

僕は努力は無駄だとは思わないが、自分に合った方向・方法で努力することが重要だと思う。