子供の自慢は見苦しい
子供の成果などを自慢することは見苦しいという感覚はあまり共有されていないのかもしれない。
この季節、立て続けに自分の子供が〇〇中学、高校、大学に合格したというLINEが送られてきた。
聞かれたら答えるのはいいと思うが(それで隠したらもっと嫌味)、聞かれてないのに伝える必要があるのか?
まかさうちの親もそんなことをしていないだろうか?
自分の自慢でも嫌だが、その方がまだ許せるか。
それが子供の自慢になるとなぜ一層悪趣味になるのか?
それもまだストレートな自慢ならまだましだが、巧妙な自慢(一瞬自慢に聞こえない自慢)はさらに悪趣味だ。
むかしとある会合で「息子が何もつかない東京の大学に合格しまして」というおっさんがいたが、一瞬「??」となったが、あ、「東京大学ね」とすぐわかった。
言いたいなら「東大に合格した」とストレートに言えば良い。それはそれで悪趣味だが、まだ変にわざわざ数秒間だけ煙にまくよりまし。
なぜ子供の自慢は悪趣味なのか?
それは子供は自分のものというか自分の手柄だと考えているからだ。
自慢というのは基本的に自分の事や自分の持ち物にだけ当てはまる。
例えば私が「ビルゲイツは5兆円持っている」といっても自慢になっていない。
それは「自」分のことでないと成立しないのだ。
子供は自分のものなのか?子供の成績は自分の成果なのか?
それは大いに疑問である。
子供の事を自慢する親は子供は自分のモノであり、その成果は自分の成果と勘違いしている。だから子供の自慢は悪趣味なのだ。
子供は親とは別個の人格である。また子供の成果は多くの場合は持って生まれたものに大きく依存すると思う。親による介入による成果だと考えるのは傲慢である。
これは僕自身の経験からである。どのように生まれたか、どういう特徴を持って生まれたかというところが子供の成果と大いに関係する。
勉強ができる子はやはりもともとそのような性質を持って生まれている。
音楽ができる子、スポーツができる子、それぞれやはり持って生まれた才能というのが大いに関係している。
親の影響など持って生まれた能力に比べれば大したことはないだろう。
自慢というのは必然的に自分のモノ、コトに限定されるのであるから、何かを自慢するということはそれが自分のモノ・コトであると言っていることになる。
そこに大いに趣味の悪さというか、自分中心的な発想を感じる。
親の自慢をするのも同じ。親離れできていない証拠で気持ちが悪い。
と言いながら自分も巧妙に自分の自慢は子供の自慢をしているかもしれないが・・・。
やはり自慢には誘惑はある。
その誘惑に打ち勝って何も自慢しない、自分自身に満ち足りた、人と比較しなくても幸せな日々を送れる人物になりたいものだ。